表中に現存する墓の位置を示す。

「禅」は京都・禅林寺(永観堂)の墓所。「先」は東京・大塚先儒墓所。「済」は東京・済松寺の墓所。

桓武平氏流木下氏

 出身は東国近江というも、先祖は北村氏にして、伊賀の柘植宗清の子俊忠より出ずと伝う。戦国の頃、木下辰之助秀信あり。近江に生まれ長じて京洛に住す。弥三郎、弥三右衛門と改め、慶長二年七月二十二日死す。年五十四、法名輝白浄甫、禅林寺に葬る。その子秀里は幼名長松、弥七郞弥兵衛と称し、春意軒と号す。寛文六年十月十八日死す。年七十三。法名諒徳院東岳春意同じく禅林寺に葬る。その子平蔵忠重、後貞幹と改む。幼より読書を好み松永章三の門に入り、萬治の頃儒者として加賀の前田綱紀に仕う。天和二年七月幕府に召出されて直参となり、寄合儒者に列し、三百俵を給せらる。順庵と号し、平之丞という。武徳大成記を編し、元禄十一年十二月二十三日死す。年七十八。私に諡して恭靖先生という。武蔵荏原郡の別荘に葬る。妻は三宅三賢の女。(木下一族、日本家系協会、1975)